あにたちは頭が悪あたま わるいから東大とうだいに行った」米長永世棋聖よねながえいせいきせい言葉ことば

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 2012年(平成24)に69歳で亡くなった米長邦雄よねながくにお永世棋聖は、さわやかな人柄と博識ひとがら はくしき各界の著名人かくかい ちょめいじんたちを魅了みりょうし、数々のユニークな名言めいげんを残してきた。それらの中で、最も有名もっと ゆうめいな名言の一節が標記の文言いっせつ ひょうき もんごん一流棋士いちりゅうきしになった30代後半の頃、「三人の兄たちは頭が悪いから東大に行った。私は頭が良いから将棋の棋士しょうぎ きしになった」と語り、大いに話題になった。

 米長は自叙伝じじょでんでその理由について、「長兄ちょうけい高校時代こうこうじだいの3年間、東大に合格するために、夜の7時から深夜の2時まで、毎日7時間は受験勉強じゅけんべんきょうをしていました。延べで約6000時間になります。私は中学から高校までの6年間、毎日5時間は将棋の勉強をしていました。延べで約1万時間になります。私が勉強したべの時間は、兄たちよりずっと多く、しかも内容がかなりかったのです。そうした自負の表じふ あらわれから、《兄たちは頭が悪いから東大に行った》と言ったんです」と語った。

 米長邦雄は1943年(昭和18)に山梨県南巨摩郡増穂町やまなしけんみなみこまぐんますほちょう現・富士川町げん ふじかわちょう)で、父親の伊甫いすけさん、母親の花子さんの四男として生まれた。 米長家は、江戸時代から続いた旧家で、約2万坪の土地を所有していた。呉服、煙草、秤ごふく たばこ はかりなどの商売でもうるおい、地元で一番の資産家しさんかだった。 米長の父親は、日中戦争にっちゅうせんそう太平洋戦争たいへいようせんそうが始まると、多額の現金たがく げんきんで「南満州鉄道みなみまんしゅうてつどう」(旧日本軍が管轄きゅうにほんぐん かんかつした中国・北東部ほくとうぶの鉄道。通称・満鉄つうしょう まんてつ)の株券を購入かぶけん こうにゅうした。政府が発した金属類回収令きんぞくるいかいしゅうれいには、貴金属ききんぞく先祖伝来の槍や薙刀せんぞでんらい やり なぎなたなど、家にある金属類をすべて供出きょうしゅつした。まさに「忠君愛国ちゅうくんあいこく」の人だった。

 しかし、1945年に戦争が終わると、満鉄の株券かぶけんは紙くず同然どうぜんとなった。さらに1947年に「農地改革のうちかいかく」が実施じっしされ、米長家の大半たいはんの土地は国に取り上げられた。
こうして米長が物心ものごころついた頃には、米長家は没落地主ぼつらくじぬしとなってしまい、食うや食わずの極貧生活ごくひんせいかつを送っていた。世をはかなんだ両親は、一家心中いっかしんじゅうしようと思い詰めたこともあったという。

 米長の長兄のやすしさんが中学に入学したとき、米長家の経済は最も逼迫ひっぱくしていた。
 泰さんが地元の巨摩高校こまこうこうに入学したとき、3年生を対象とした学力診断がくりょくしんだんテストが実施された。1年生の泰さんも参加すると、数学と理科すうがく りかの2科目で全学年を通ぜんがくねん つうじてトップの成績せいせきとなった。
 抜群ばつぐんの成績におどろいた教師や学友は、「東大を目指したらいい」とすすめた。泰さんは米長家の経済的事情けいざいてきじじょうから、大学はあきらめていたが、学費がくひが安くて奨学金制度しょうがくきんせいどがあることを知って心が動いた。高校1年の夏休みから、前述ぜんじゅつのように受験勉強を猛烈じゅけんべんきょう もうれつに始めた。現代の受験生げんだい じゅけんせいのように進学塾しんがくじゅくには通わず、ラジオの通信講座つうしんこうざを利用したりして、独力で取り組どくりょく と くんだ。

 米長の上の三人の兄弟たちは、学校から帰ると畑仕事をするのが日課だった。貧しい米長家にとって、畑で収穫しゅうかくする野菜や芋は貴重いも きちょうな食料となった。母親の花子さんがある日曜日、次男と三男に畑仕事を言い付けた。やがて、黙々もくもくと働いていた次男が「長男ちょうなんは朝から何も仕事をしていないのはどうしてか」と文句を言うと、母親は「泰は勉強しているじゃないか」と突っぱねた。二人はその一言に、「そうか、勉強していれば畑仕事をしないでいいんだ」とわかった。

 泰さんは現役で東大に進学した。修さんも優さんも東大を目指し、長兄の勉強法や日課を踏襲にっか とうしゅうした。畑仕事の中で最も辛かった炎天下えんてんかでの草むしりと比べたら、受験勉強の大変さは何でもなかったという。そして、次兄も三兄も東大に進学した。以前は東大受験者さえ皆無かいむだった山梨県の田舎の高校から、三人もの東大出身者が世に出た。

 母親の花子さんは、「東大に入った息子さんたちに、どんな勉強をさせたか教えてください」とよくたずねられた。実際には、息子たちを畑仕事でこき使い、「勉強しろ」と言ったことは一度もなかったという。

 米長は1993年の名人戦で7回目の挑戦者ちょうせんしゃになったとき、「菜の花は薹(とう)が立ってから花が咲く」との名言を残した。過去6回の挑戦でいずれも敗退はいたいしていたが、盛りを過ぎてから咲き誇る菜さ ほこ なの花に、自身の心境しんきょうに見立てた。そして、米長は名ライバルの中原誠名人なかはらまことめいじん(当時45)をやぶり、最年長記録の50歳で名人位に就めいじんい ついた。

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